四十五年前の初心
四十五年前の初心
昭和四十六年の六月に、旧朝倉郡小石原村で小さな電気炉を据え、木乃丸院窯を開窯させました。当時二十三歳、未だ若く修行も勉強も必要な時期ではありましたが、民芸の本質や、人間とは何か、等、本質的な問題に興味を抱いていた私にとって、自分の仕事に、その問いをぶっつけていく以外にないと思っておりました。
河井寛次郎先生には、民芸の本質とは畢竟いのちの本質であること、また、保田与重郎(やすだよじゅうろう)先生からは、日本の美の本源は古事記や万葉集の中にある事等を学んでいました。特に保田先生の「芭蕉」の中で、わび さび や 細み しおり 等の美の追求の後、「~ 俳諧は万葉集の心なり ~」 と芭蕉の中に大きな変化が起こり、やがて 軽み へと至る心の進化は私の心を捉え、自分の求めている答はここにあるとさえ思はれました。つまり 軽み とは心の自然であり、自然の発露が作品に結実するという捉え方、安田流に云うと〟神ながらの道〝 に叶う芸道のあり方でした。もう一つ付け加えるなら、軽み とは、表現上の技術でもなく、オリジナルな感覚でもない。モノが生まれいづる心のあり方だったという解釈でした。これが、私の初心でもありました。
この後、子供三人を育てながら、技術の研鑽を重ね、現実問題と対峙し「工房・木乃丸院窯」の構想を具現化しました。これは手仕事でも、分業化により一定量の量産が可能となり、高度な仕事でも一般化できるといった理想を追ったものでした。
これは思った以上の成果を収め、「工房・木乃丸院窯」は大きく飛躍しました。これにより木乃丸院窯は全国展開となり、取り扱い店は全国で五十を超えるようになりましたが、一方で、この飛躍は大きな経済問題を抱える事となったのです。急速に大きくなる生産体制を作り出す為の先行投資は、大きな負債となり、次第に経営を圧迫し始めました。バブル崩壊後は、徐々に市場も収縮を始め、資金繰りに追われるようになり、最後はお決まりの債務不履行。家、土地は競売に掛かり、同時に私もガンを発症し、万事休すとなりました。
病院を退院後、窯の再生の道筋は未だ立たないまま。ある日田んぼの中を散策の途中、何か不思議な感覚に見舞われました。「生きてるって、幸せだなぁ」。これまで、己の幸せについて特別意識した事はなく、現状においてはなおさらに、思いもよらない感覚でした。
この時から私は魂について考え始めました。また、同時に、初心を取り戻し、窯を再興させるのではなく、生き方を再生させねばと思うようになりました。魂のありかを探求する事が、結果的には日本の美の根元に近づき、人とは何かという本質的な問いの答えとなると直感したのです。
現実的には幾人かの方々には大変なご迷惑をお掛けしながら、そして、色々な方々のご支援や励ましを頂きながら、今日まで仕事を続けてこられた事は、奇跡といえるかもしれません。また、理想とする場所に三度目の窯を構える事ができた事も、奇跡なのかもしれません。多くの方々に感謝を申し上げる以外には術もなく、私が今生きている、あるいは生かされている事と、その方々の思いは一つであると感じています。
古の文化びとが豊かな生活を捨てて、山野を旅し、あるいは庵にこもり、己の芸道を磨き、日本文化の礎を築いてきました。そして、彼らがその最後に求めたものは、いのちが輝く、いのちがやすらぐ、いのちが喜ぶ、その心のあり方とは何なのか、それを探す旅路だったのではないかと、今の私には思はれます。
平成二十八年 四月